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無題

11月17日
お休みをいただいた日、
日差しもよく、暖かったので
ゆるぽた兼、御墓参りに。




道中和菓子屋さんに立ち寄り
団子、どら焼きを買って。



淀川河川敷沿いを進み



約1時間半程で到着し



いつも通りの勝手乍らの
お掃除を。
(たまにしか来ていませんが、、、)


祝詞をあげるのではなく、
(あげれない、が正解ですが。)
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今の自分の
日々の◯◯◯◯な気持ちを
声にだして各々へ伝える方が
性に合っている

      ごめん。叔父さん。
      今日はメンソールを
      持ってきてない。
      次回は持ってくる。
      頭と心にスーッとさせ、
      冴えてくるから好きなんだ、
      と眼鏡越しに言っていた台詞。

      私はタバコは吸わないけど
      楽しかった時間でした。
      あの時のヒントが
      今の仕事に深く役立つ
      きっかけには
      なっています。
      ありがとう。
      
      

      おばさん。
      おばさんとは
      全く話さなかったけど
      最近母親から当時の話の
      一部を聞きました。

      色々あったんですね。
      ごめんなさい。
      そして有難うございました。


      早くに亡くなったおばさん。
      同い年の息子さんとは
      あまり話をしなかったけど
      長兄から新たに聞いた話では
      今度話をしてみようと
      思います。
      

      お父さん。
      そちらはどうですか。



      又、来ます。



      
      

      
      


霊園では
烏も鳴いていたけど、
墓苔も新たに
見かけ
ゴシゴシと。



二ヶ所を御参りした後
母親宅へ。


お団子とどら焼きは母親へ。
(喉が詰まらなくて良かった)





しっかりした
上のきょうだい達のお陰で

素人目の私がみても

90近い母親は
今のところは、
良い状態かな、良かった、と。







母親宅を辞してから
外に出てみたら
少し寒くなっていました。




駅前再開発で
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綺麗に変貌しつつあるJR岸辺駅前
(汚かった駅は遥か昔)





ここで見かけた
障害を持ちながらも
精一杯頑張られている方 

側で温かく見守られている方々




彼女達がつくった
カレンダーは買わなかったけど、
彼女が描いたハンバーガーには


『私は、これ凄く美味しかった‼︎‼︎』
の気持ちがよくよく伝わりました。
破顔の顔が印象的でした。
ただ、どら焼き等を買っていたので
財布が、軽くて、、、。


代わりに、買って食べた
ココアクッキーは
凄く凄く美味しかったです。




その横を、


満面の笑みで
よちよち歩く
可愛いお子さん


あたたかい眼差しで
見守られていた
若い御夫婦。




所変わって


綺麗に御参りされている御墓
他方では
草木がぼうぼうと荒れ放題の御墓






色々あって
あっという間に
過ぎた
1日でした。














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(淀川河川敷の自転車道の道中にて)

薄っすら見える橋は淀川新橋
この辺りは後で調べると
色々とあったそうです。
『袗子絶間』
〔ころもこ の たえま〕



・『茨田の堤』
    仁徳天皇の御代、
   淀川の氾濫を防ぐために
   堤防を築くも決壊してしまうことが
   多々あった。

    ある夜、天皇の夢枕に
   神があらわれて、
  「武蔵国の強頸と河内国の袗子を
   人身御供にすればよい。」
   と告げられました。
    そこで、武蔵国の強頸が
   捕らえられ生贄にされます。

   続いて、
   河内国の袗子が捕らえられます。

   ところが、
   袗子は自分が生贄に
   されそうになると、


  「河の神の祟りによって、
   わたしは御供にされる
   ことになった。

    どうしても神がわたしを
   求めるというならば、
   この瓢を沈めて下さい。

   瓢が沈んだら真の神であると
   判断して入水しましょう。
   
    もしも沈めることが
   できなければ、

   偽りの神と判断して
   私は生贄にはなりません。」
   といって、手に持っていた
   瓢箪を川に投げ入れます。


    すると、急に風が起こり、
   瓢箪を沈めようとするのですが、
   波にのまれながらも沈みません。
   
   やがて瓢箪は遠くへ流れ去り、
   袗子は死なずに済み、
   堤防だけが造られました。

   この堤防はそれぞれ、

  「強頸の絶間(断間とも書く)」、
   〔こわくび の たえま〕

  「袗子の絶間」と
   〔ころもこ の たえま〕

   呼ばれるようになり、
   どちらも決壊することは
   ありませんでした。

    これは『日本書紀』に
   書かれている「袗子絶間」
   という説話のあらすじで、
  「絶間」とは堤防のことを
   指しています。

  ・違う古地図からですが、
  (萱島駅前にある島頭神社からの
   参照図からですが。)
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   大阪は、
   昔は、大きな潟だったんですね。
   

   各時代の先人のおかげで
   今があるんですね。



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