本日 84 人 - 昨日 69 人 - 累計 29345 人

無題

2020年11月30日
11月17日
お休みをいただいた日、
日差しもよく、暖かったので
ゆるぽた兼、御墓参りに。




道中和菓子屋さんに立ち寄り
団子、どら焼きを買って。



淀川河川敷沿いを進み



約1時間半程で到着し



いつも通りの勝手乍らの
お掃除を。
(たまにしか来ていませんが、、、)


祝詞をあげるのではなく、
(あげれない、が正解ですが。)
C33C847D-05EB-47C7-ABAD-396B6B8E35AD



今の自分の
日々の◯◯◯◯な気持ちを
声にだして各々へ伝える方が
性に合っている

      ごめん。叔父さん。
      今日はメンソールを
      持ってきてない。
      次回は持ってくる。
      頭と心にスーッとさせ、
      冴えてくるから好きなんだ、
      と眼鏡越しに言っていた台詞。

      私はタバコは吸わないけど
      楽しかった時間でした。
      あの時のヒントが
      今の仕事に深く役立つ
      きっかけには
      なっています。
      ありがとう。
      
      

      おばさん。
      おばさんとは
      全く話さなかったけど
      最近母親から当時の話の
      一部を聞きました。

      色々あったんですね。
      ごめんなさい。
      そして有難うございました。


      早くに亡くなったおばさん。
      同い年の息子さんとは
      あまり話をしなかったけど
      長兄から新たに聞いた話では
      今度話をしてみようと
      思います。
      

      お父さん。
      そちらはどうですか。



      又、来ます。



      
      

      
      


霊園では
烏も鳴いていたけど、
墓苔も新たに
見かけ
ゴシゴシと。



二ヶ所を御参りした後
母親宅へ。


お団子とどら焼きは母親へ。
(喉が詰まらなくて良かった)





しっかりした
上のきょうだい達のお陰で

素人目の私がみても

90近い母親は
今のところは、
良い状態かな、良かった、と。







母親宅を辞してから
外に出てみたら
少し寒くなっていました。




駅前再開発で
EEF18011-FA19-48E6-B850-00FBB9B98196
綺麗に変貌しつつあるJR岸辺駅前
(汚かった駅は遥か昔)





ここで見かけた
障害を持ちながらも
精一杯頑張られている方 

側で温かく見守られている方々




彼女達がつくった
カレンダーは買わなかったけど、
彼女が描いたハンバーガーには


『私は、これ凄く美味しかった‼︎‼︎』
の気持ちがよくよく伝わりました。
破顔の顔が印象的でした。
ただ、どら焼き等を買っていたので
財布が、軽くて、、、。


代わりに、買って食べた
ココアクッキーは
凄く凄く美味しかったです。




その横を、


満面の笑みで
よちよち歩く
可愛いお子さん


あたたかい眼差しで
見守られていた
若い御夫婦。




所変わって


綺麗に御参りされている御墓
他方では
草木がぼうぼうと荒れ放題の御墓






色々あって
あっという間に
過ぎた
1日でした。














F056DD26-994B-40B5-97CC-FCB7C7889F0C
(淀川河川敷の自転車道の道中にて)

薄っすら見える橋は淀川新橋
この辺りは後で調べると
色々とあったそうです。
『袗子絶間』
〔ころもこ の たえま〕



・『茨田の堤』
    仁徳天皇の御代、
   淀川の氾濫を防ぐために
   堤防を築くも決壊してしまうことが
   多々あった。

    ある夜、天皇の夢枕に
   神があらわれて、
  「武蔵国の強頸と河内国の袗子を
   人身御供にすればよい。」
   と告げられました。
    そこで、武蔵国の強頸が
   捕らえられ生贄にされます。

   続いて、
   河内国の袗子が捕らえられます。

   ところが、
   袗子は自分が生贄に
   されそうになると、


  「河の神の祟りによって、
   わたしは御供にされる
   ことになった。

    どうしても神がわたしを
   求めるというならば、
   この瓢を沈めて下さい。

   瓢が沈んだら真の神であると
   判断して入水しましょう。
   
    もしも沈めることが
   できなければ、

   偽りの神と判断して
   私は生贄にはなりません。」
   といって、手に持っていた
   瓢箪を川に投げ入れます。


    すると、急に風が起こり、
   瓢箪を沈めようとするのですが、
   波にのまれながらも沈みません。
   
   やがて瓢箪は遠くへ流れ去り、
   袗子は死なずに済み、
   堤防だけが造られました。

   この堤防はそれぞれ、

  「強頸の絶間(断間とも書く)」、
   〔こわくび の たえま〕

  「袗子の絶間」と
   〔ころもこ の たえま〕

   呼ばれるようになり、
   どちらも決壊することは
   ありませんでした。

    これは『日本書紀』に
   書かれている「袗子絶間」
   という説話のあらすじで、
  「絶間」とは堤防のことを
   指しています。

  ・違う古地図からですが、
  (萱島駅前にある島頭神社からの
   参照図からですが。)
64E311BD-2532-41FC-8563-40BA6A8CD977
   大阪は、
   昔は、大きな潟だったんですね。
   

   各時代の先人のおかげで
   今があるんですね。

| 18:11 | 未分類

朱智神社から

2020年11月13日
E7AB1569-CBF4-4F6A-8A42-88253F79D7B3
(京都府京田辺市天王縄手19)

89EA9E56-1F89-4109-A0F0-EEE93ADDB028
その場所は、
山々に囲まれた、急な坂道の奥。
(勿論、自転車は降りて
 歩いていましたが、、)


A8083849-3DA4-470E-86E0-6771BB7C818D



04C036E5-40BB-4222-9492-3F50D2C10924



E012B00D-BDCF-41A6-B210-59A6268FFB69

辺りの地名は『天王』が多くついてあり
昔は、中々権威のある方が
いらっしゃったのかなぁと。



鳥居の足元には
『八坂神社 宮司 高原美忠 謹書』と。
A8C755B0-234A-4EDD-BAA5-B017EE86EDEB


更に進んで
3D8B91B5-36E3-4FDE-9E02-F14309B4B789


BBBB1C6C-352A-4579-8712-9F2807C88F4B
 

AEC24355-0CA3-47B6-8010-1C5D3EE6F225


E2E1B326-BD54-4D61-8776-AFE1780C38E5


39588EA2-B313-45B6-AB92-B672C766CD1B



6BF9E4DD-EC4A-4846-9F77-19BBCE68F533


主祭神  迦邇米雷王命
    (かにめいかずちのみこと)
配神   建速須佐之男命
    (たけはやのすさのおのみこと)
     天照國照彦火明命
    (あまてらすくにてるひこ
     ほあかりのみこと)


御由緒  もとは、此地より西方三町餘りの
     所にあり。
     仁徳天皇の六十九に社殿を建てて
     朱智号とする。
     迦邇米雷命は、
     開化天皇〔第9代〕の曾孫で、
     神功皇后/ の祖父に當る。
    〔/第14代仲哀天皇の皇后〕

     垂仁天皇〔第11代〕の御代に
     この地を治められて、
     その子孫が朱智姓を名乗った。

     桓武天皇〔第50代〕の御代に
     須佐男命を相殿として祀られ、

     清和天皇〔第56代〕の御代に
     大宝天王(牛頭天王)を
     現在の八坂神社に遷し、
     毎年 "遷移し" の行事をしていたが

     何時の頃からか無くなった。

     明治維新になり、
     神祇官に上請して
     天王社を古名の朱智神社に復し
     明治六年六月、郷社となる。

     

     

     
     






F160B00C-AF0E-4520-B71D-E4FCC982E029
檜皮葺が見事ですね。
蒼い色の蟇股も‼︎


01E72339-D11C-430B-98E2-631F775FE2FE
えびす様も可愛いですね‼︎



D804AB62-603D-48EB-9130-400C7F709286



0CA81A95-9A99-4DC8-95A6-F60D65724093


89CDE1CC-6222-4607-8262-2FDA6A5CE0F1
牛頭天王も奉納されていて
69EDBA70-9710-4078-B09E-2CE9B516B874
[唐様装束の一木作り/
平安時代後期の作]
(他社HPより抜粋)



現在の本殿は
1612年(慶長十七年)に再建される。




FF6FA87C-A62C-4BDB-AE68-BD955F38A414

式内社
一間社流造
檜皮葺(屋根)
桃山様式の華麗な向拝や蟇股(かえるまた)





















勝手乍らの参拝を終え、
近くの極楽寺から
精華町、下狛方面を望み
5A4136C9-9130-4D4E-B77C-652ECB03ABA9

持参していたパンを食べていたら
隣りの畑のラジオから、
山口百恵さんの
『いい日旅立ち』が。


いい曲だなぁって
思っていたら何かしら気配を感じ


ふと足元を



78EB6B00-4679-48C7-BE0C-F54714696B60
元気いっぱい動いていました!




一休憩後、
高船里ー

笠上神社ー
F71CDB88-FE99-40CB-B03A-2C3ED7E68584

くろんど池付近ー
C87348F6-E186-4FE4-B424-BEA44C89B2A0

1C0FAB8A-3C9D-40BC-A787-4E0D13CADA19

倉治方面へ
DA8FF098-1ADC-4FCA-884A-30AF39BBDFD4

まわった

ゆるゆるなポタリングでした!

















8CEB5DF8-6230-470B-BED2-A00CDAA387F0

【向かって左側、前から

⚪︎住吉神社 ー祭神上筒男命
         中筒男命
         底筒男命
⚪︎大高神社 ー  高皇産霊命
⚪︎三社大神社ー  経津主命
         健御雷命
         神日本磐余彦尊
⚪︎朝日神社 ー  正勝吾勝勝速日
         天忍穂耳命
⚪︎大土神社 ー  大山御祖命
⚪︎白山神社 ー  大山祇命
⚪︎稲生神社 ー  豊宇氣毘売神】


【向かって右側、前から

⚪︎天津神社 ー  伊邪那岐命
         伊邪那美命
⚪︎皇神大宮 ー  大神宮祭神
⚪︎春日神社 ー  天児屋命
⚪︎鎭火神社 ー  火産霊命
⚪︎祈雨神社 ー  天水分神
⚪︎金神社  ー  金山毘売神
         金山毘古神


         








•【高原美忠/
     [①日本の神道学者、神職。
     八坂神社名誉宮司。
     皇學館大学学長。
     ②和菓子の命名もされたそう。
     (亀廣永の『したたり』
     、、、今度買いに、、、)
     ③国際宗教同志会
     http://www.relnet.co.jp/kokusyu/
      (宮司なのに、
     同志社大学、金光教、大本など
     他宗教とも広く
     交流をされる等々)
     幅広く活動をされていた
     御方なんですね。]】

・【斗栱・蟇股・木鼻】
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/u-bunkatu-2.htm

・【向拝/
     日本の寺院建築・神社建築に
     おいて、
     仏堂や社殿の屋根の中央が
     前方に張り出した部分のこと。
     仏堂や社殿入口の階段上に
     設けられる場合が多いことから
     「階隠」(はしかくし)とも】



・【牛頭天王/ 下記4点は其々別の地域にある
       牛頭天王像。
       他サイトからです。

640EF2FD-493A-4F49-8CA5-18CEB2E8A304

6AE5DC77-AC4B-457E-AC00-1EF1CCF50FD6

7FB7497D-B3B4-42ED-B868-67B0C1087588

C7ED0F23-7FEC-463F-9FB3-98A4E6DECBA4

牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神。

     疫病を防ぐ神であり、薬師如来を
     本地仏とし、
     神道におけるスサノオ神と
     同体であるとする。

     又祇園精舎の守護神であるので、
     この神を祭った場所は、
     しばしば祇園と呼ばれる。

     京都祇園の八坂神社は、
     貞観年間に円如が播磨国広峰から
     牛頭天王を遷して京都に祀り、

     元慶年間、摂政藤原基経が
     牛頭天王のために精舎を建て
     祇園社と呼んだのに始まる。

     天禄元年、
     悪疫を鎮める祇園御霊会
    (祇園祭)が始まったと云われる。

     当時は医療技術が
     乏しかったので、
     疫病を防ぐ
     強い力を持つ
     牛頭天王に対する信仰は、
     平安時代末期から中世にかけて
     広範囲に広まっていった。

     牛頭天王は略して単に「天王」と
     呼ばれたが、
     民衆にとって、
     「てんのう」とは、
     天皇のことではなく
     牛頭天王のことであった。

     新たに牛頭天王を祀る社を
     作るのみならず、
     従来からの古社に
     牛頭天王を併祀することも
     多く行われた。

     そして、それらがいつの間にか、
     従来からの祭神を押しのけ、
     牛頭天王を
     主祭神とするようになり、
     社名までもが変えられていった。

      近世に入り、
     国学者や神道家にとって
     牛頭天王は
     目障りなものであった。

     神道こそ絶対であるとして、
     神仏混淆・本地垂迹を
     排撃する彼らにとって、
     記紀の中で
     重要な位置にあるスサノオ神と
     習合している牛頭天王は
     許しがたいものであった。

      さらに、「てんのう」と
     称することは「天皇」に対する
     重大な僭称であり、
     大不敬と思われた。
     延喜式に記された
     由緒正しい古社までが
     牛頭天王を祀っていることに
     彼らは憤激したのであった。

      彼らは牛頭天王信長対策説
     なるものを考え出す。

     これらの神社は織田信長による
     社寺破壊の難を免れるために、
     織田氏が信仰篤い牛頭天王を
     祀っていると称しただけで、

     本意から牛頭天王を祀った
     のではないと云う説を
     作り出した。

      やがて明治維新となる。
     国学者たちが拠った明治政府は
     神仏分離を政策とし、
     牛頭天王を祭神としていた神社に
     対しては、

     すべてその祭神を
     スサノオ神に変えるか、   
  
     祭神の中から
     牛頭天王を除外することを
     求めた。

     こうして京都の祇園社自身も、
     その名を八坂神社と改め、
     祭神をスサノオ神に変更した。】


・【郷社/
     神社の旧社格の一つ。

     1871年(明治4)
     太政官布告により
     社格制度が新たに定められた際、
     官社以外の神社を諸社といい、

     府社、
     藩社(廃藩後は府県社と改称)、
     県社、
     郷社、
     村社が定められた。

     郷社は府県社に次ぐ
     郷邑(きょうゆう)の
     産土神(うぶすながみ)で、

     村社よりも崇敬範囲が広く、
     一地方にわたって崇敬
     される中心的神社をあてた。】



  ※私自身は、全くの無知から、
  自分だけが分かり易いように
  継ぎ接ぎで纏めているだけです。

  
  
  よくよく見れば、
  ボロがいっぱいあります。
  間違いも沢山ございます。


  その当時の方々の深い意味を
  私の中で『引っ掛かるもの』を、
  勝手に思って調べているので、
  何卒御了承下さいませ。
| 01:02 | 未分類

風景

2020年11月12日
・【京都府綴喜郡井手町
田村新田大谷にて】
9F4A58D6-335E-43A8-8D44-5DD1FA5B3D77


28B31B01-0A21-4B96-8271-B6C223B284ED


4711CD72-CD7C-46AA-B370-9D1972A40500


・【京都府相楽郡和束町
府道321号、白栖、他にて】
C7AEB7DC-A7BA-443D-97D7-47087EE8DD4F


3F26E413-890E-4824-857F-6C88879EBE95


8212FD9F-2383-477C-AEBA-5DEAD44B1AB1


A18C2F4E-CE1F-4D8E-81A4-684AB829D5C0


CB37BCE5-E1F9-4C3D-9C97-7CDECA27C7FA


65E0B82B-92F6-4C24-B0E7-BB7CBA2B23C4


・【奈良県奈良市
月ヶ瀬月瀬315/
天神風の道公園にて】
35FAFDEE-DF4C-4CD9-BAF8-6450C2A987F3


7F20D7EC-5709-4073-970B-F2097E7099CB


・【京都府相楽郡南山城村
田山西尾/高山橋にて】
A71F1676-D69D-4442-9D9F-215F547A4644


671EA90F-8691-4588-A3FA-8AD8C102A74B

寒暖差が厳しいです。
皆様御身体にも御注意下さいませ。


以上 井手町ー和束ー月ヶ瀬 でした。
| 21:41 | 未分類