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【虫 二】仙厓義梵

遥か昔、



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【石光山 石山寺/
滋賀県大津市石山寺1丁目1-1】
(画像はHPからの転載です)
https://www.ishiyamadera.or.jp/




一休宗純が石山寺にて
扁額の言葉を請われて

【虫 二】と

したためたそう。




数百年経って

石山寺の人達も分からなかったこの言葉に
仙厓義梵が次の歌を詠まれました。



『近江路や石山寺の眺めこそ 061C3140-0FB1-4B74-BE6C-BD9CC00C1294

    風と月との裡にありけり』
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風月無辺  自然の風景がものすごく
      美しいことの隠喩。
     「風月」の二字から枠を
      なくす(無辺)と
     「虫二」となることから。





こんな言葉が、、、あったんですね。
(私自身、全く知らなくて、、、)






 一休宗純が若かりし頃
琵琶湖で入水自殺を図るも
無事、一命をとりとめ、



その後の御活躍は
皆様も御存知かと。




中国では岳陽楼からの景色が素晴らしく
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(画像からはお月様には見えませんが、、)

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水天一色、風月無辺の言葉も。
風景がこの上無く素晴らしい、と。
   风月无边[fēngyuèwúbiān]
  【解释】:极言风景之佳胜。
  【出自】:宋·朱知熹
      《六先生画像·濂溪先生》
      :“ 风月无边道,庭草交翠。”


日本でもその詩や風景が知れ渡り
ここ近江、石山寺も
負けず劣らず
素晴らしい景色なんだぞーと、

【風月無辺】

【虫 二】に。

頓知の秀でた一休宗純。
凄く博識ある方だったんですね。



それを踏まえて
詠まれる仙厓義梵も
博識ある御方だったんですね。







江戸時代も、大飢饉があり

その道中で見たであろう凄惨な世の中と
禅の世界との

理想と現実の橋渡しを

沢山沢山自己消化を為されて
優しく伝える画法は、
可笑しくもあり
ハッとさせられるものもあり


この1か月は
良い方を知ることが出来た
日々でした。





私の言葉はやはり拙いです。

御存知の方は多いとは思いますが、
是非ぜひサイトや、
出光美術館等等
足を運んでみて下さいませ。






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(仙厓《指月布袋画賛》江戸時代)
を月様 幾ツ 十三七ツ

   【布袋の指し示す先には
   何も描かれていない。
   禅の修行も同じ。
   指(経典)にとらわれていては、
   月(悟り)には至らないという教え】





・【仙厓の風俗画をめぐって2/
八波浩一/出光美術館】
    http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/06.i demitsu-No22_2017.pdf

・【仙厓の生涯 | 政治・文化情報2017】
    http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress015/宗教/禅宗/仙厓別冊太陽/仙厓の生涯/

・【仙崖の遺偈に関する一考察/
衝藤 吉則】
    https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/253 96/20141016151603192723/JourEthicalStudies_11_47.pdf
 
・【天明の大飢饉/
 天明2年_天明7年(1782年_1787年)
  浅間山、アイスランドのラキ山等の
  噴火と、
  エルニーニョ現象による冷害。
  杉田玄白による『後見草』では


  


『後見草』
「扨此の後に至り御府内は五穀の価少し賎く成しか共、他国はさして替りなく、次第に食尽て、果は草木の根葉までもかてに成るべき程の物くらはずといふ事なし。或ひは松の皮をはぎ餅に作りて喰ふの由、公にも聞召し、飢を凌ぐの為なれば藁餅といふ物を作り喰へと触られたり。其の製法は、能わらのあくをぬき粉にはたきて、一升あらば米粉三合まぜ合わせ、蒸し搗て餅となし是を喰ふ事なりき。其の中にも、出羽、陸奥の両国は、常は豊饒の国なりしが、此年はそれに引きかへて取わけの不熟にて、南部、津軽に至りては、余所よりは甚しく、銭三百文に米一升、雑穀も夫に准じ、後々は銀拾弐匁に狗壱疋、銀五拾匁に馬一疋と価を定め侍りし由。
 然ありしにより元より貧き者共は生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば…日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。
 又或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に餓たる人の死骸あり、是を切割、股の肉、籃に盛行人有し故、何になすとぞと問侍れば、是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由。かく浅間しき年なれば、国々の大小名皆々心を痛ましめ饑を救はせ玉へ共、天災の致す所人力にては及がたく、凡そ去年今年の間に五畿七道にて餓死せし人、何万人と云数知れず、おそろしかりし年なりし。(中略)
 夏も過ぎ漸く秋に至りぬれば新穀も出来り世の中少し隠なり。されども昔より人の申伝へし如く、飢饉の後はいつとても疫癘必ず行はるとかや。今年も又其の如く此の病災にかかりては死亡する者多かりき。遥か程過侍れて後、陸奥国松前かたに罷りし人帰り来て語りしは、南部の五戸、六戸より東の方の村里は飢饉疫癘両災にて人種も尽けるにや、田畠は皆荒はてて渺々たる原野の如く、郷里は猶有ながら行通ふ人もなく、民屋は立並べど更に人語の響もなく、窓や戸ぼそを窺へば天災にかかりし人葬り弔ふ者もなく、筋肉爛れ臥もあり、或ひは白骨と成はてて煩ひ寐し其の侭に、夜の物着て転もあり。又路々の草間には餓死せし人の骸骨ども累々と重なり相合ひ、幾らともなく有けるを見過ごし侍ると申たり。かかる無慙の有様如何に乱離の後にても及ぶまじとぞ聞へしなり。此の躰に侍れば何時何の年耕作むかしに立帰り、五穀の実のり出来ぬべし、苦々敷世のさまなりとぞ申けり。又或人の語りしは、白河より東の方、此の一両年の凶作にて、婦人の月経めぐり来らず、鶏玉子を産ざる由、是も一つの異事なるべし」



・ わらべ歌「お月さん幾つ」の歌詞

 お月さまいくつ十三七つ、まだ年ゃ若いな
 あの子を産んでこの子を産んで、
 誰に抱かしょ、お万に抱かしょ

 お万どこ行った
 油買いに茶買いに、
 油屋の縁で氷が張って、
 滑って転んで油一升こぼした

 その油どうした
 太郎どんの犬と次郎どんの犬と
 みんな舐めてしもた

 その犬どうした
 太鼓に張って、
 あっちの方でもどんどんどん、
 こっちの方でもどんどんどん




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【蒼木まや さん/長崎県にて】
こんな水天一色もいいですね。



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